最近に限らないが,『これが人間のやることか?』と暗澹な気持ちにさせられる事件が余りにも多い。
ふと気が向いて岡潔の本を読み返しているが,春宵十話(講談社)という文庫本の中の「日本的情緒」という小文の中で,戦後日本の義務教育は“道義”という肝心なものを教えず手を抜いてやってきたので,顔つきまで変わってしまうほどに“動物性”が入ってしまったと指摘され,さらに 『現在最も恐ろしいのものは「動物性」であって,これは残忍性のウィルスの最もよき温床だという事実である。』 という文章にぶつかり,改めて襟を正される思いがした。半世紀近くも前の指摘を,いままで手をこまねき,ただ見過ごしてきたツケが回ってきたようで,思わず唸ってしまった。
『 いまの義務教育はもう胃がんと同じ症状を見せている。手遅れでないとはいい切れないが,治療法としては,直ちに切開して「疑わしきは残さず」の原理によって「人」も「学科」も「やり方」も清掃してしまうほかはない。何よりもまず,動物性を持ったものを教育者にしないことである。闘争性,残忍性,少しでもそんなものがあってはいけない。師弟は互いに敬愛すべきであって,大自然の子を畏敬尊崇できないものは小学校の師たる基本が欠けているのである。
ともかく人の子という敬虔の念なしにやっているものは,教師でも学科でもみな削り,残ったものだけで教育をやればよいのである。極端なことをいうと思われるかもしれないが,少なくともこれぐらいにいわなければ門題の所在はわかってもらえない状態にある。
敬虔ということで気になるのは,最近「人づくり」という言葉があることである。人の子を育てるのは大自然なのであって,人はその手助けをするにすぎない。「人づくり」などというのは思い上がりもはなはだしいと思う。』
既に半世紀余りも前に指摘されている問題の所在に対し,未だに解決の手が差し伸べられていない現状に,日本国よこの先大丈夫か?と世間の片隅に生息している者としても心配になってくる。そこでどうすればいいかというヒントが次に述べられている.
『動物性の侵入を食い止めようと思えば,情緒を綺麗にするのが何よりも大切で,それには他のこころをよく汲むように導き,いろんな美しい話を聞かせ,なつかしさその他の情操を養い,正義や羞恥のセンスを育てる必要がある。』
『いまの教育は道義という肝心なものを教えないで手を抜いているのだから、まことに簡単にできる。それ以外には犬を仕込むように,主人に嫌われないための行儀と,食べていくための芸を仕込んでいるというだけである。個人の幸福は,つまるところは動物性の満足にほかならない。生まれて六十日ぐらいの赤ん坊で既に「見る目」と「見える目」の二つが備わるが,この「見る目」の主人公は本能である.そうして人は,えてしてこの本能を自分だと思い違いするのである。そこでこの国では,昔から多くの人たちが口々にこのことを戒めているのである。』
ネット社会が蔓延普及すれば子供も居ながらにして大人顔負けのいろいろな情報・知識を手に入れ,知らずの知らずのうちに人や大自然に対して横柄・生意気になり、我欲から生まれる「見る目」ばかりを強めてくる。戒めを与える大人が居ないというのは子供にとって痛ましいことだ。病巣は深まる一方だが,小さいことでも,できることから矯正していくほかないだろう。

(宇治川の鵜飼)